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Date:  26 May 2005 17:27:37 +0900
From:  <sadman0@....jp>
Subject:  [modeling-dojo:00434] Re: オブジェクトのやりとり(Re:  32番リベンジモデル公開)
To:  modeling-dojo@....jp
Message-Id:  <20050526082737.12249.qmail@....jp>
In-Reply-To:  <20050526065809.52571.qmail@....jp>
X-Mail-Count: 00434

SadMan

句点がなくてすみません「派」ではなくルーズなだけでした。

>>>表現する事と思考段階で紙と鉛筆で下書きする事を分けて論じる事に疑問を感じます

>> ○考えるのと表現するのも、また一人時間差攻撃によって

>> 別のタイミングでやることにすればいいのではないかと。
>
>ええ、考えることと表現することは違います。

> 次に、分かれるといっても単純に2つに切り離したいわけじゃなく、
> 両者の間に無段階的な中間状態もあると思っています。
> 1つの数直線(?)の両端に「表現」と「思考」が有り、

nakaakiさんだけに疑問を感じたわけではないのですが
過程の問題ではなく、もっと一体的なものと思っています。
既に思考が出来上がっているならば表現は作業に過ぎませんが
分析という過程においては熟度の問題でも始点終点でもなく
描く事も含めて思考という活動だと言う主張です。

成果物として混沌から秩序への移動があるのは同感ですが
表現は思考を伝えるものであるから同等と言っています。

> それは規格化とかデファクト化とか、とにかくスタンダード化すれば
> 解決することです。 UMLのように:-)。
> 

この辺り、恣意的の意味で誤解があったようですね。
規格化されれば恣意的にならず問題ではないというのは同感です。
読んだ時の印象は
「いろんな事象を一遍に表現した恣意的な図表なんて出されたらたまんない」だったのです。

> キャッチボールで喩えられてる概念が、
> 「局所的」な概念とは限らない、ということのような気がします。

キャッチボールが局所的と言ったのではありません。
どちらかと言えば複合的であるのでそういった大きな括りのものを分析して局所的に表現するから
表現方法が局所的になってもあまり困らないではないか?と言ってます。

> ただ、それじゃ図として巨大すぎるものになっちゃわないか?という危険はあるわけですが…。
> #で、妥協案としてタグジャンプ。
> 一方、巨大化により読みにくい(描きにくい)絵になっちゃう恐れのほうは、

> >それは、分析やモデリングという手段ではなく表現=目的物と感じます
> 
> んーと、よく判らないんですが、
> 「それで済むならそれでいいのでは?回り道しなくて済むわけだし。」
> と、つい思ってしまいました。

> >ですから、大局的なものを厳格に表現したいという要求が起きないのです
> 私が言ってる奴を、私は格別に「厳格」だとは思っていません。

目的をそのまま表現できてしまうレベルの
複数の事象を盛り込んだ統合的な巨大な図は
分析できていない標でもあるし、経験上役に立たない事が多いと思います。

> 「UMLじゃ伝わらない」事柄も実際に沢山あるわけですよね。
> (そのなかの1つが私が気にしてる問題です。)
> そういう意味では、UMLが実現してる「共有」は、あくまで限定的なものです。

ちょっと立場がわかりにくく感じます。
各論賛成みたいな雰囲気になってしまうと議論がしにくくなります。

当初の議論で感じたのは(極端に書きますが)
オブジェクト指向では現実の複雑な業務を表現しきれないのに
何かしらの実装モデルに嵌め込んでいかなければならない。
そのため分析を行うのにはUMLの表現力は脆弱で
もっと複合的な表現からクラスを導き出す手法が欲しい。

という主張に見えたのです。

このところの議論の流れに感じるのは
人生いろいろ会社もいろいろモデルもいろいろ。
概ね賛成、ただしここだけが惜しい(10番目の視点)という感じに聞こえてるんです。

大局的見地が不要とは言いませんが
人間があまり複雑な事を全体的に把握する事は困難なので
分割しカプセル化し把握しやすい粒度で局所的検討をして
全体の自律を保証するような手法となっている気がします。

紙が分かれて相互参照が面倒という事はわたしも感じます。

SadMan