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Date:  26 May 2005 13:47:50 +0900
From:  <sadman0@....jp>
Subject:  [modeling-dojo:00431] Re: オブジェクトのやりとり(Re:  32番リベンジモデル公開)
To:  modeling-dojo@....jp
Message-Id:  <20050526044750.93740.qmail@....jp>
In-Reply-To:  <4294ABCC.1050000@....com>
X-Mail-Count: 00431

SadManです

話題を区切りたくてタイトルを変えてみたけれど
別の枝で話題が広がってしまって32リベンジが生き残ってしまいましたね

いくつか思ったことを


・思考と表現を別の活動として捉えるのはどうか

図表の最終的な成果物は清書ではありますが
わたしは結構UML自体を下書きのように使っているので(もちろん紙と鉛筆やWBなど)
表現する事と思考段階で紙と鉛筆で下書きする事を分けて論じる事に疑問を感じます


・メッセージ→状態変化→・・・の例について

ステートチャートで書けないと主張されてますが
ステートチャートではアクションやシグナルが書けますよね
ステートマシンである程度表現できそうに思うのですが

それと、複雑な事象の全容をよしんばそのように表現できたとしても
それを概念共有に本当に使えるのか?という疑問が残ります
なにか新しい人が来るたびに図の読み方と表現の意図などを
毎回説明しなければならない事態にならないでしょうか?


・恣意的な区切りについて

ますます分からなくなりました
必要以上の自由度は、整理や伝達を阻害すると思っているからです
さらにそれが恣意的となると、収拾つかなくなるような気がするのですが?
UMLはワンオブゼムというのは同意しますが
恣意的ではないから共有が可能なのだと思っています


・例えばアニメのような表現方法

ファイルのコピーダイアログの例が出ていましたが
それは手段ではなく目的のようにも思います
つまり、キャッチボールのような物を直感的に分かるように表現できたとしたら
それは既に実装ではないでしょうか?
キャッチボールのような物をどう実現するのか分析していく過程に
局所的表現が現れるように感じるのです
ふくざつな業務がアニメーションのように表現できてしまったら
それは、分析やモデリングという手段ではなく表現=目的物と感じます


まとめ:
「木を見て森を見ず」と言われそうですが(実際そうなる事もある、恥)
漠然とした森を実装していくために限られた(共有できる既知の)視点に分解し
木を見出していくというのがわたしの考えです

ですから、大局的なものを厳格に表現したいという要求が起きないのです
経験ではあまり広い範囲を一度に説明しているような図表は
要求分析時の参考になるぐらいで分析設計時には
あまり役に立たなかったり邪魔になる事すらあります

結局は使い様という話になりそうですが
今まで問題点が良くわからないとかやりたい目的がわからないといった
質問が多かったのはそういうことでありました

SadMan