> 仮に、ソフトウェア自体を計って、生産量Xが得られるとしましょう。ここ
> で、全く同じソフトウェアが複数の組織や個人で別々に開発されたとしたら
> 生産量の合計はいくらになりますか?
生産量は単純に合計し評価し、重複分は別途(無駄なものとして)
評価すればよいだけです。ひとつの数値ですべてを表そうとする
から何もかも「できない」という結論になるのです。
> 組織や個人の数がnの時、nXでしょうか?別々に開発した場合と開発した
> ものをコピーした場合とでは、生産量の合計は違うのでしょうか?
コピーした分を状況に応じて(それが適切ならプラスの要因とし
て、また不適切なものであればマイナス要因として)評価すれば
よいだけです。
> 別々に開発した場合の生産量がnXで、開発したものをコピーした場合の生
> 産量がXならば、ソフトウェアの再利用などせずに全てゼロから開発し直す
> べきだということになります。車輪の再発明に励むべきだということにな
> ります。
再発明に相当する無駄な分を洗い出し、そういったものの比率が少
なくなるようにするのではないですか?「ゼロ」にするには洗い
出し作業のコストが膨大になりますから、「少なく抑える」方向
になると思います。どの程度少なくなったかなどの割合は、そも
そも全体の量を求めなければならないので、上記の単純に合計し
た値を用いることになるでしょう。
重複分が減少すれば、ある側面の生産性が上がったとみなすこと
ができるでしょう。ここで重複分の洗い出し率が未定義ですが、
便宜上コストに比例すると置くしかないと思います。すなわち
重複分の洗い出し率/洗い出し作業に掛けたコスト=一定とした分
が現実との誤差であり、一連の数値が実際の値ではなく近似であ
る証です。
また異質なソフト同士はそもそも潜在的な「価値」が異なるので
すから生産量や生産性は比較できるわけもなく、事実そんな比較
を行うことはソフトウェア工学の範疇にないはずです。
> 規模を生産量の指標として使う正当な理由があるというのでしょうか?
> せいぜい、これまでそうやってきたから、他の人もそうやっているからと
> いうような理由にすぎないと思いますが。それでは、これまで天動説が
> 正しいとされていたから天動説が正しいはずだと主張するようなものです。
> 私が唯一読んだことがあるのは、「雑誌の原稿料を原稿用紙の枚数でもらう
> ようなもの」というようなものでしたが、それでは、書籍の印税が原稿用紙
> の枚数と無関係なことが説明できません。
上に手間隙掛けて規模や生産量の指標の「使い方」を書きました。
おそらく「何だいまさら当たり前のこと」と感じることと思いま
すが。濱井さんが盛んに否定している「規模」を「生産量」とし
て扱う「使い方」とはいったいどんなものなのでしょう?まさか時
給のようにコードのサイズに係数を掛けて給料を算出するような
システムではないですよね?
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Michitaro Horiuchi / Access Co.,Ltd.
horiuchi@....jp / horiuti@....jp